論文の査読

こうみえても、専門家でしたので論文の査読者を何度かしたことがあります。その際に恩師の横田先生から教えていただいたことは、

1.査読は査定ではない。論文の至らぬところを本来の査読者である「読者」に代わって指摘し、その原因を究明し、わかりやすく且つ、論理的な論文にしてあげる事が主な仕事である。

2.従って、至らない論文である場合は一刀両断にしてしまわず懇切丁寧に指導してあげるべきである。

3.査読者を経験すると投稿者の気持ちも理解できるようになり、投稿するときにどういうポイントを気をつけたらよいか分かるようになる。といったことでした。

ところで、先日、ある雑誌に論文投稿いたしましたが、この査読者がまったく教育を受けていないとしか思えないような方々でした。まず、スペルエラーがいくつかあったのですが、文法的に間違っていると指摘を受けたのにはまいりました。日本語的には「〜〜されている」という受け身の形なのですが、英文では受け身が多くなると読みづらい文になります。従って、わざと他動詞として使用して(もちろん、その動詞は自動詞も他動詞も使える動詞なんですが・・)いるにも拘わらず、「nativeに見てもらえ」と啖呵を切っているので笑うしかありません。「辞書を引いて見ろよ!」ですわ。また、さらに、症例の事実を捉えず、自分が見たことがある病態に無理矢理こじつけようと「このケースはreperfusion injuryであるので別に新しいことはない」・・どこの世界に冠れんしゅく誘発テスト中に、発症するためには数時間以上かかる現象が出てくるんでしょうね?

まあ、どこの雑誌でも、必ずしも査読者が中立的で学問に対し発展的であるとは限りません。あの、アインシュタインも最初の投稿先は受け付けてもらえませんでしたし、自分の研究と都合が合わない研究などは抹殺されるのは、ざらです。私も、ずいぶん昔ですが当時最先端の仕事をしており海外での学会発表もしていたのですが、論文に仕上げるのが2年以上もかかり、アメリカの雑誌に投稿したところ6ヶ月寝かされて、Rejectで返ってきてその理由が、こういう仕事は経胸壁心エコーでもできるからと言われその3ヶ月後に私が投稿した雑誌から方法論を経胸壁心エコーに変えて、同じ様な内容の論文が載りました。

こういう現象が何故繰り返されるかというと、査読者が匿名であるため(査読者は保護されているのです)、何か優越感を持ってしまい適正なjudgeができなくなるからなのでしょう。大体、最先端の仕事をしておれば、こういう論調で査読したのはどこどこの何々先生だと分かりますから、何も匿名にしなくても良いと思いますがねえ(実は私があきれた査読者もほぼ見当はついています)。優秀な査読者をそろえた、一流と呼ばれる学術誌でも査読者の公開はありません。従って、どんなにいい雑誌においても90-99%位は、適切に査読されているかも知れませんが、1-10%ぐらいは恣意が混じってくるかもしれないと思います。注意せねばならないことは、この真実90-嘘10という関係は非常にだまされやすい情報環境であるということです。嘘の情報ばかりだと、簡単に看破できますが、多数の本物の中に偽情報を紛れ込ますと、かなり賢明でなければ見抜けません。逆に皆本物でより素晴らしい雑誌という評価がなされ、この雑誌だから信用するという訳の分からない価値観が生じてしまうのです。また、逆に一部の嘘が発覚すると他も全て嘘であるかのように思う異常な価値観をも生じます。多くの査読者をなされる方は本来の査読者は読者であると分かってはいると思いますが、恣意の入らない学問の発展のためには査読者の匿名性を解消した学術誌の登場が待たれます。

こんな事ばかり書きますと、これから論文を書く人たちは嫌気が差して気力を失ってもらっても困りますので言っておきますが、真実はひとつで、多くの査読者は良識を持って査読をしているはずです。アインシュタインも再投稿しましたし、私も最初の論文をもう一度書き直して同じ雑誌に再投稿いたしました。自分が見つけたこと、経験したことが、その当時の常識にたとえそぐわないことであれ、真実であれば、いずれはコペルニクスのように認められるのです(もっとも、コペルニクスの知識は古代文明などでは常識であったようですが・・)。そして、その真実を評価できる方も必ずいますので論文にできる環境の方は(他の国などでは、日常業務に追われそんなことをする暇もない方も多いのですから)、是非、日本に生まれたことを感謝しつつ書くべきであると思います。 inserted by FC2 system