Profiles of Cardiology
あるメーリングリストで循環器の偉人伝シリーズのような企画をして第一回は投稿したのですが、その反応が今ひとつで、続編をメールボックスの下書きに置いたままになっていました。読み返すと、面白いかもと思いましたのでここに載せることにしました。(2023年12月)

アメリカの臨床雑誌でClinical Cardiologyという雑誌があります。その雑誌にProfiles of Cardiologyというタイトルで1985年頃から、心臓病学の先達・偉人伝のような連載物がありましたので,皆様に少し紹介した い と思います。以下のサイトを探っていくと無料で記事が見れます。http://onlinelibrary.wiley.com/journal /10.1002/(ISSN)1932-8737/issues その中で第一話としてCarey Coombsを非常にはしょって、簡単に和訳して紹介します。私自身は、古典的なリウマチ熱に伴うこの雑音は、聴取した経験がありませんが、その雑音の機序 に関しても迫ってみたいと思いま す。 ************************************************************************** Carey Coobms Clin. Cardiol. 15, 868-869 (1992) ************************************************************************** Carey Flanklin Coobmsは1879年にイギリスで生まれた医師。LondonのSt Mary病院で,リウマチ熱の研究を行っていた。彼は急性リウマチ熱が器質的心疾患の重要で頻度の高い原因である事を指摘し、予防可能である事を示した。 剖検との対比研究を通じて、リウマチ性心筋炎の原因としてPoyntonとPaineのdiplostreptococcus説を支持した。彼の 一世紀前にフランス人のRene Laennecによって導入された聴診技術の面でも,医学的な発見をした。Carey Coobms雑音と呼ばれる雑音:たびたびリウマチ性心筋炎の初発症状として聞かれるmiddiastolic rumbleについて、僧帽弁狭窄ではなく、僧帽弁の炎症が弁葉の粗造と、硬化を生じて乱流を生じるために発生すると強調した。典型的な場合にはこの雑音 は急性炎症が消退すれば消失した。第一次世界大戦後も彼はリウマチ熱の診断と治療に貢献し、サリチル酸の投与と安静を勧めた。扁桃摘出術に関しては他の方法で菌の侵入が不可能の場合に限るように要求した。1932年に没するまでリウマチ性心疾患の病態生理と自然歴の描出に努力した事は記念 すべき業績である。 ************************************************************** ここからは私の私的見解です。 Carey Coobms雑音の原因ですが、心エコー等でこの雑音の研究報告は聞いた事がありませんし、いまやリウマチ熱自体先進国では希少な疾患なので今後 の研究は期待できませんので、流体力学的考案から迫ってみます。 心雑音の発生要因は何でしょうか?それは血液の流れが乱れて渦とか乱流を生じるために生じてくると考えられています。血液の流れが一様な層流では 通常は、雑音を生じにくいとされています。その、血液などの流体の流れの乱れを表す指標としてレイノルズ数という概念があります。レイノルズ数は Re= ρUD/μ と言う式で表され(ρ:血液の密度、U:断面平均血流速度、D:管腔内径、μ:粘性係数)概念的には慣性力と粘性力の比になり、単位はありま せん。つまり,レイノルズ数は血液の密度が濃くなればなるほど、血流速度が速くなるほど、管の内径が大きくなればなるほど、大きくなり,逆に粘性 係数(血管の内面の粗さ等)が大きくなればなるほど大きくなります。一般的にはレイノルズ数が大きくなると雑音が大きくなるとされています,もの の本によると 2000以上とされていますが実験的には,この数値は層流でのレイノルズ数の上限がこの値に近いようです。レイノルズ数が2000以上で層流から乱流に移 行するのは定常流に限った話であり、生体の血液の流れは拍動流で定常流ではありません。一方で、拍動流では、乱流は加速流で生じにくく、減速流で 生じやすいという特徴があります(これはパルスドプラで駆出血流をとれば血流の立ち上がりはnarrow bandで示されるのに、ピークを過ぎるとギザギザに表示される事からも理解可能です)。 この理論によれば、Carey Coobms雑音の聴取する条件として1.僧帽弁通過血流速度の上昇:僧帽弁狭窄を伴わずに上昇するには、highoutput状態(貧血や発熱)が条件として有力です。また、MRの出現によっても上昇します。2.粘性項目の増大:この増大の理由として、リウマチ性の心内膜炎のVerrucaの存在が僧帽弁内膜を粗造にして乱流を生じやすくするという機 序が説明しやすそうです。3.拡張中期に雑音が聴取される理由としては,拍動流の場合には流れの剥離が減速流で生じるという事で,急速流入が終わった後の減速期である拡張 中期から生じるという事で説明可能かと思われます。 1.2は急性炎症が消退すれば低下しますので,一過性に聞こえる理由も説明可能 と思います。 以上,趣味に基づいた私的考案でした。(2014/7月)

今回は,循環器偉人列伝の第2話を例によってClinical Cardiologyから簡単に和訳します。
雑誌を見ていく限り最初にこのシリーズが始まったのが、1985年4月です。その、第一話に記載されているのがこのHarveyです。僕が医師に なったのが1984年,この雑誌を初めて読んだのは恐らく1987年頃です。医局においてあり,この列伝が載っていて,面白いとは思いましたが抄読会のネタにはならないので流し読みしかしなかった記憶があります。
原著を読みたい方はこちらhttp://onlinelibrary.wiley.com/store/10.1002 /clc.4960080411/asset/4960080411_ftp.pdf?v=1&t=ib8k3ydk&s=bc958f6fbd11651e33bafced8330550243f26762

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William Harvey Clin. Cardiol. 8, 244-246 (1985)
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Harveyの血液循環の発見と言う業績は17世紀における最も重要な科学的業績で,近代循環器学の礎となるものである。William Harveyは1598年にイギリスのFolkstoneで生まれた。彼は19才のときにイタリアのPadua医科大学に入学し、そこで Fabriciusのもとで解剖学と生理学を学んだ。またPadua大学の先輩であるVesaliusにも影響を受けた。Harveyの発見以前 約1400年間は、2世紀のローマ時代のギリシャの医学者であるClaudus Galenが教典であった。Galenは食物が肝臓で血液に変換されるとした。Spritの充填した血液は右室から肺動脈に駆出された後、戻り目に見えな い小孔を通して心室中隔から左室に血液を運んでいると考えられていた。Pneumaの作用で空気を混じた肺静脈血が左室で入り交じってVital spiritになり、全身に血液を送り出していると考えられていた(注:肺動脈と肺静脈の循環は存在しないと考えられていた)。
Harveyは1602年にイギリスに戻り80体以上の動物を解剖し、次のような有名な言葉を残した。「人間のような高度の温血動物では血液は右 室から肺動脈を通して肺に到達し肺静脈を通り左心耳に至り,左室から全身に駆出する」この理論を証明するために肺動脈を縛り右室に水を注入して心 室中隔を通って水が出てこない事を確認し、次に拘束を解いて、左室に水が出てくる事で確認した。
Harveyは肺動脈と肺静脈の間にporositesという連結組織を想定したが,当時は証明困難で1661年にMalpighiが新しい顕微 鏡で毛細血管床を発見するまでは証明されなかった。
Harveyは1651年に発生学の教典も出版し、1657年に脳梗塞で他界した。
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個人的には,私は左房機能の研究をやっていましたので、Harveyの名前はよくお目にかかりました.その中で、Harvey自身の言葉が記載さ れている論文があったはずだと、いろいろ探してみましたところ,以下の論文に記載がありました。
Studies of Starling's Law of the heart  IV Observations on the hemodynamic functions of the left atrium in man: Braunwald.E, Frahm CJ,  Circulation 1961: Vol 19, Sep. 633
その論文にはHarveyが左室が拡張するのみではなく、心房の収縮によっても血液が流入する事を観察した文があり、古い心房機能の論文には必ず と言ってほどHarveyが心房の収縮を初めて記載してから・・といった書き出しがありました。しかし、このような生涯であったとはまったく知り ませんでした。 (2015年7月)

循環器偉人列伝の第3話をClinical Cardiologyから抜粋してゆきます。このシリーズは前にも報告したように1985年4月から始まっています(ちなみに雑誌の創刊は1978年)。 雑誌の刊別にWeb上では配列されていて,誰がどの刊にあるのかよく分りませんので、とりあえず1990年まで刊別に誰が記載されているか表にし てみました。
1985年
 4月 William Harvey、6月 Helen Brooke Taussing、10月 Thomas Lewis
1986年
 1月 Andreas Roland Gruentzig、2月 Andre F Cournand、4月 Alfred Blalock、5月 Eugine A Stead Jr、7月 Charles K Friedburg、8月 Sir Dominic John Corrigan、9月 Leuis Nelson Katz、10月 George Burch、11月 Harris H Branham、
1987年
 3月 William Heberden、6月 Paul Wood、7月 Arexis Carrel、8月Stephan Hales、9月 William Likoff、10月 Frank Norman Wilson、11月 Reymond Pruitt、12月 Jesse Edwards
1988年
 1月 George C Griffith、3月 Sir James Mackenzie、4月 Reginald B Hudson、5月 William Osler、6月 Demetrio Sodi-Pallares、7月 Arthur M Master、8月 Reymond P Ahiquist、9月 Maude Abbott、10月 H.G.C Swan、11月 Jean-Nicholas Corvisart、12月 William Stokes
1989年
 2月 Sir Alexander Fleming、3月 Tinsley Randolph Harrison、5月 Louis Wolff、6月 James Hope、7月 William Withering、8月 Austin Flint、9月Sir John Parkinson、10月 Pierre Mere Latham、11月 T.Lauder Brunton、12月 Carl J Wiggers
1990年
 1月 William Henry Broadbent、2月 Karel Frederik Wenckebach、3月Lewis Dexter、4月 Allan Burns、5月 T.Ducket Jones and Paul Dudley White、6月 Thomas Bevill Peacock、8月 William Taunsend Porter、9月 Glovani Maria Lancisi、11月 Lazzaro Spallanzani、12月 Howard B Sprague

なんと、半分くらいしか知りません。このシリーズは循環器偉人伝と思っていましたが,メンバーを見ると、医学偉人伝ですね。今回は以上の中から Sir Alexander Flemingにしてみます。今回もはしょって意訳していますので,興味のある方は原本を読んでください。
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Sir Alexander Fleming  Clin. Cardiol.12;110-112,1989
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パスツールが、「科学的分野では、心が準備されていないと好機が生かされない」と記した格言は、Alexander FlemingがSt Mary病院のWright科学研究室で黄色ブドウ球菌を寒天培養研究していた際にも当てはまっていた。Flemingにとって繰り返し顕微鏡を見る事は 重要であった。ペトリ皿のカバーがはずれると空気中のコンタミ感染によって、翌日には菌塊が発生して皿は不要なものと化してしまうためである。あ る日、ブドウ球菌のコロニーがそのコンタミ菌塊と離れた部分では元気であるのに,近くの領域ではまったく消失してしまっている事に気がついた。こ の奇妙な現象を見て,彼はかつて自分が風邪をひいた時に自分の鼻汁分泌物を培地に塗布したところ、細菌の成長を分断する裂け目が生じた経験を思い 出した。Flemingはこの基質を細菌を殺す酵素でlysozymeと名付けた。第一次世界大戦中には、彼と上司のWrightは、体の免疫系 が体内に侵入した細菌を殺すことができるのだと結論し、体内のLysozymeを傷口に引き出すために,高張食塩水による消毒と灌水を勧めた。後 にlysozymeはすべての菌を殺菌しない事、効果が短時間であることが判明し実用性が少ないことが判明した。
Alexander Flemingは1881年スコットランドのAryshineに生まれた。14才のときにLondonのPolytechnic schoolに入学した。1901年にSt. Mary医学校に入学するが,そこを選んだのは水球をしたいがためであった。卒業後、外科医になるはずだったが翌日、Wrightの実験室に入ることにな る。そこで,白血球について研究しているときにOpsoninを発見する。その後、先に述べたlysozomeの研究をへて,冒頭のコンタミ菌塊 の発見にいたる。彼はこの菌塊が真菌の一種でPeniciliumの一種である事を発見した。後にアメリカでPenicilium notatumと判明する。この菌塊そのものではなく抽出物も淋菌,ブドウ球菌,レンサ球菌に殺傷的に働いたが、大腸菌には無効であった。これらを 1929年にペニシリン菌による急性殺菌効果という論文で報告した。1939年この論文を読んだOxfordのFloryとChainがペニシリ ンの精製物の抽出に成功したが,安定した抽出は戦時下のイギリスでは困難であった。ようやく1944年にDayによって商用ベースでの精製ペニシ リンの供給が可能となった。1945年、FlemingはFloryとChainとともにノーベル医学賞を受賞した,この栄誉にも拘らず、 FlemingはSt Maryの研究室で働き続けていた。この研究室の表札は手書きのままだったし、Flemingの名前も記されておらず,質素なままであった。そして、 1955年3月に心筋梗塞でこの世を去った。
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数年前に、村上もとかという漫画家が、「仁」という、漫画を書いて大ヒットし,テレビドラマ化されたので、ご存知の方も多いと思いますが、この世 にペニシリンが発見されてなかったら,あるいは少し早く発見されていたらと,夢想すると科学の進歩も変わっていただろうと思います。

ちなみに,私は「仁」全巻保有しています(関係ないけど)。(2015年8月)

今回も雑誌Clinical CardiologyのProfiles of Cardiologyの年表を1991年から、1995年まで一覧に書き出してみます。すると、日本人の研究者が出てきます。

1991年
1月 Jan Evangelista Purkinje、2月 W Proctor Harvey、4月 Carl Ludwig、5月Sunao Tawara、6月 Robert E Gross、7月 Paul Dudley White、8月 Jeremiah Stamler、9月Charles Fisch、10月 Denton A Cooley、11月 Robert Hebard Bayley、
1992年
1月 Rene G Favaloro、2月 John Hunter、4月 Herrman Ludwig Blumgart、6月 Samuel A Levine,7月 Werner Forssmann、8月 Caleb Hiller Parry、9月 Robert Ritchie Linton、10月 Willem Einthoven、11月Carey F Coombs、12月 R Bruce Logue
1993年
1月 Albion Walter Hewlett、2月 George William Manning、3月 Rene Joseph Hyacinthe Bertin、4月 Chuichi Kawai、5月 Sir John McMichael、6月 Harold Nathan Segall、7月 Richard Gorlin、8月 H Newell Martin、9月 Sir Brian Barratt-Boyes、10月 Richard Lower、11月 Donald Arthur McDonald、12月
William Ganz
1994年
1月 Henry T Bahnson、2月 William Dock、3月 Eugene Braunwald、4月 Henry Pickering Bowditch、5月 William R Milnor、6月 John F Goodwin、7月 F Mason Sones Jr、8月 John H Gibbon Jr、9月 Lewis E January、10月 Pierre Carl Potain、11月 Edward Jenner、12月 Myron Prinzmetal
1995年
1月 Graham Steel、2月 Wilhelm Ebstein、3月 Irving S Wright、4月 John Forbes、5月 Albrecht von Haller、6月Arthur Cushny、7月 William Murrell、8月 Homer W Smith、9月 Louis Faugeres Bishop、10月 Julien Jean Cesar Legallois、11月 Henry Ingersoll Bowditch、12月 Jean Baptiste de Senac

という事で,今回はここに載っている二人の日本人研究者の和訳を行ってみます。
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1.Sunao Tawara Clin.Cardiol.14,442-443,1991
2.Chuichi Kawai Clin.Cardiol.16,362-363,1993
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1.田原淳(スナオ)は1873年に大分県で生まれた。1901年東京大学医学部を卒業し、1903年Aschoff, Ludwigらの病理学者がいるドイツのMarburyに欧州留学した。彼は,100例以上の心臓解剖を行い、肥大心筋の病理学的な脆弱性はほんのわずか にしか認めない事を確認した。この研究中にAschoff体を発見したのも実は彼であった.心筋に大きな病理学的異常を見いだせなかったため、刺 激伝導系の研究を始めた。ヒス束を調べたが、これにも大きな異常を見いだせなかった。彼はヒス束と心筋を結ぶ経路に研究をシフトして1906年に 房室結節とプルキンエ束の解剖学的研究という論文を執筆する。この記念すべき研究で刺激伝導系の全貌が解明された。1906年に日本に戻り九州大 学の教授となり1952年福岡で死亡された。
2.河合忠一は、1928年に日本に生まれた。京都大学を1953年に卒業し1959年に博士号を得た。1962年から64年にStanford 大学とボストン市民病院に留学した。帰国後大阪医大の教官となり1974年に京都大学第3内科教授となった。1991年まで教授を務め、日本循環 器学会のChief Director、日本内科学会,腎臓病学会等々でご活躍された。また、国際循環器学会のリーダーとして1985年から活躍し、共著を含めた論文数は 1350以上に上る。彼の著作で、特に貢献があったのは、心筋症,心筋炎,他にも腎臓病,心不全等等の業績が上げられる。彼はトシ夫人との間に4 人の子供をもうけた。彼のソフトで、エレガントな人間性を含め臨床心臓病学に多大な貢献をした事は記憶すべき事である。
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房室結節は、田原結節とも呼ばれ,この業績から人工ペースメーカーの開発が可能となった為ペースメーカーの父とも呼ばれるそうで,最近は小説にも なっているようです。河合先生は、大阪医大におられたのは知っていますが、僕の入学以前でした。しかし、大阪医大の循環器教育は多分当時から洗練 されていたと思いますし,僕が学生時代に循環器をやろうと思った契機になった理由でもありました。世の中,つながる事が結構多いですね。(2015年9月)

今回もClinical Cardiologyから、1996年-2000年までのprofilesを列記します。

1996年
1月 William Hurst and W Bruce Fye、2月 Herman Hellerstein、3月 Wilfred Gordon Bigelow、5月 Niels Stensen、6月 Robert Adams、7月 Glovanni Alfonso Borelli、8月 Antonio di Paolo Benivieni、9月 Marie Francois Xaveir Bichat、10月 Jean Baptiste Bouillaud、11月 Claude Bernard,12月 Andrea Cesalpino
1997年
1月 Thomas Young、2月 Lorenzo Bellini、3月 Wilhelm Raab、4月 Antonio Scarpa、5月 Scipione Riva-Rocci、6月 J Willis Hurst、8月 Joseph Skoda、9月 Karl Rokitanski、 10月 Marshall Hall、11月 Olof Rudbeck、12月 Jean Franciois Fernel
1998年
2月 Guy Fontain、3月 George J Guthrie、4月 James Wardrop、5月 Frans C Donders、6月 Frank I Marcus、7月 John Ferriar、8月 Thomas Woodward Smith、9月 Herbert N Hultgren、10月 Dirk Durrer、11月 Richard Gorlin、12月 Noble O Fowler
1999年
1月 Louis Gallavardin、2月 Aubrey Leatham、 3月 Robert S Fraser、4月 Etienne Louis Fallot、5月 Rudolff Albert von Koelliker、6月 Leonard Botallo、7月 Charles Lindbergh、8月 Ludwig Ashcoff、9月 Robert C Schiant、10月 Edger Haber、12月 Richard Starr Ross
2000年
1月John B Barlow、2月 Franz M Groedel、3月 James Bryan Herrick、4月 Augustus Desire Waller、5月 Adolph Fick、6月 Norman E Shumway、7月 Rudolph Virchow、8月 David Scherf、9月 Ernst Willhelm and Eduard Weber、10月 Giovanni Battista Morgagni、11月 John Hay、12月 Ignacio Chavez

この中で今回は、ファロー四徴症で有名なFallotにしてみます.意外なミステリーがありました。
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Etienne Louis Fallot Clin. Cardiol 22,321-322 1999
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肺動脈弁狭窄,心室中隔欠損、右室肥大,大動脈騎乗はファロー四徴症と呼ばれ、1888年にフランスの目立たない雑誌に、出生時のチアノーゼの主 な原因としてファローによって記載された。論文は6本のチアノーゼ性心疾患の病理解剖学所見でタイトルは「maladie blueの病理解剖学的貢献」という98ページに及ぶものであった。(注:maladie blueは心性チアノーゼという意味のフランス語)4年後にAmblose Birminghamによって一つの論文が発表された。これは後にファロー五徴と呼ばれる、すなわちファロー四徴に加えて、心房間の交通(心房中隔欠損) が加えられた。しかし、ファローは既に、時に卵円孔の開存を伴うと指摘していたのであった。しかしながら,ファローの指摘した出生時からチアノー ゼを伴う奇形は、既に1671年にNiels Stensenによって記載されていた。他にもEduard Sandifort(1777年)、William Hunter (1784年)、 Farrd ( I 8 14年)、 Gintrac
(1824年)、 Peacock (1866年)、Debely (1878年)、Roger (1870年)によっても指摘されてきていたのであった。ファローは、チアノーゼ性の心疾患が非常に稀で、病理解剖学的特色を,自分の名前を冠してまとめ たのであった。この略語(ファロー四徴症)は今日まで使われているが、彼は先人たちの業績を率直に認めていた.例えば、1世紀前のDebelyの 出版物に言及していた。Fallotは生前、業績が評価されていなかったため、伝記はあまりない。Matteiによって記載された短い伝記のみで ある。それによれば、彼は1850年にフランスのCetteで生まれた。学生時代は優秀で、マルセイユの医大に進学し,病理解剖学を専攻した。最 終的に法医学教授となり、死ぬまでその職にあり、1911年に死亡した。単に疾患を最初に発見した,あるいは報告したものの名前を冠する事が必ず しも正しい訳ではなく、先人の報告を元に疾患概念を確立する事も重要であるのだ。
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ファロー四徴症と言えば、学生時代,ポリクリよりも前に夏休みに循環器内科を2週間見学させてもらったときに、この疾患の入院患者さんがいたのを 思い出します。患者さんの,ばち指、心雑音,Heaveの触診、蹲居姿勢、すべてが勉強になりました。今では、当たり前になった、早期の臨床現場 での経験はやはり,すごくモチベーションを上げてくれた出来事でした。(2015年10月)




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